ちょい辛爽快「塩つけ麺」 – 『味の彩華』(東京都三鷹市)

久しぶりに、三鷹駅にある「味の彩華」に行ってきた。ここは以前、塩ラーメンが非常に有名なところであって、然しながら地元ではあんまり人気がないお店でもある。個人的に、ここの塩つけ麺が好きだったので、ちょっと思い当たって出かけてみた。

夜20時過ぎに入店した。一人座席が無いので、四人座席を失礼させていただいた。店員さんは慌ただしいが、お店は相変わらずいい感じの雰囲気。若い女性客もいた。お店的には完全な「中華」のお店で、必ずしもラーメン屋、という訳ではないので、女性客はちょっと以外だった。

んで、大好きな「塩つけ麺」を頂くことに。特盛(1000円)は600gと量があるが、個人的にはこれぐらい屁でもない。実際、これまで特盛ばかり食べている。この麺は自家製で、しっかり包丁で切った麺の太さが残っている。また、色でわかるように、ほうれん草がたくさん含まれているので、たくさん食べても心配にはならないのだ。

スープが塩つけ麺というぐらいだから塩味なのだが、この味がナイス!もともと、ここの塩ラーメンは、レモンが入っていることでさっぱりさが強いのだが、スープもちょい辛な割にさっぱりしていて大変美味しい。ただ、今日頂いたのはちょっとぬるかったのが残念だった。場合によっては、麺を熱盛にしていただいたほうが良いだろう。(特に寒かったので)

スープは本当においしくて、いくらでも頂ける。中に入っている豚肉がしゃぶしゃぶ用なのだろうか、また美味しいのだ。

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ということで、みんなよろしく!笑

時間ないのでこれだけですいません!

『告白』を見た人たちの次の10年

彼女と映画『告白』について話していた。

私が映画『告白』を去年見たときのインパクトは、概ね都人士が受けた衝撃と大差がないだろう。否、寧ろ上映が終わったあとも金縛りにあったかのように動けず、何ら言葉を発せなかった私は、実は最も衝撃を受けた層の一人だったのかもしれない。

ウィキペディアを見ていてふと気づいたが、2010年に告白が公開される10年前、2000年はあの名作「バトル・ロワイアル」が公開された歳だった。深作欣二監督晩年の作であるが、あの映画は当時日本に衝撃をもたらした。映画の中にある暴力的シーンの数々や、グロテスクをそのまま絵にしたような描写、そもそも原作が原作とはいえ、「若い子どもが殺し合いをする」ということ、すなわち殺人に対するタブーを打ち破ったかのような強烈なメッセージ、そして生への固執。映画の芸術的に、また脚本的な評価は一定以上のものがあったと認知しているが、それ以上に世間を騒がせた映画だった。

R-15指定を受けたあの映画は、「特別篇」として、R-15を「掻い潜った」バージョンとして、結果的に全ての国民が見る機会を与えられた。そしてその4年後、「佐世保小6女児同級生殺害事件」が起きる。犯人の小6の子供(以下、加害女児とする)は、姉のレンタルビデオ屋のカードを不正に利用し、バトル・ロワイアルを複数回鑑賞したことが調べで分かっている。また、加害女児はバトル・ロワイアルを模倣した内容となっている小説を自ら柿、その小説の中で被害女児と同じ苗字の子を殺害している。

「バトル・ロワイアル」は、社会心理学的に影響があったと言えるのだろうか。結論から言えば、これはあったと言えるだろう。加害女児の、映画を繰り返し見てそれに感化された小説を書くという行為自体、並大抵の事ではない。そもそも、それだけの強い印象をあたえる可能性があったが為に、R-15指定だったことを踏まえれば、犯行の残虐性を鑑みても、一定の影響があったと認めることに異議を唱える人はいないだろう。

では、「バトル・ロワイアル」という映画は、存在してはいけなかったのか。私は、この類の問いには否定的な考えを持つ。
そもそも、 加害女児が被害女児に対して殺意を持った理由は、些細な言葉による傷つきから、嫌がらせへと発展し、それが更に悪い方向に進んだ結果であった。すなわち、映画は動機「そのもの」ではない。犯行の残虐性を鑑みれば、確かに映画そのものと類似する部分もあり、犯行ないしは「殺人」に対する具現化されたイメージを醸成する一因となったことは否定出来ない。しかしながら、それは犯行の残虐性そのものの話であり、他の方法で殺害を実行した可能性だってあるだろう。勿論、影響が全くなかったということを言っているわけではない。あくまで、存在してはいけなかったのか、という観点から捉えたときには、その主張は行き過ぎではないだろうか、ということだ。

映画に限らず、物事には良い側面と悪い側面がある。前衛的な作品であった「バトル・ロワイアル」の芸術性や主張が社会に与えた良い側面もあるだろう。従って、一長一短なのである。

さて、本題。

映画『告白』 が、同様に社会に与える影響とはなんだろうか、という議論を彼女としていた。良い側面については、もう十分に評価されているところであり、改めて私から説明する必要はないだろう。なので省く。悪い側面についてを検証していきたい。

この映画が与える悪い側面として何が起きるだろうか、という点を考えると、切っても切れないのが「エイズ」だろう。桜宮先生がエイズになり、その血液を混入した牛乳が登場する。この導入部の強烈な出来事を冷静に今考えただけでも戦慄が走るが、ふと「これが実際の社会で起きたりはしないだろうか」と考えたりはしないだろうか。

HIV感染者は日本でも着実に増えてきている。(参考(レッドリボン特集):http://redribbon.yahoo.co.jp/know/02.html) すなわち、映画と同等の状況を再現することは決して不可能ではない。
ただ念の為記述しておくが、HIVに感染した血液を牛乳に混入し、それを飲用したことでHIVに感染する確率は、決して高くない。(HIVウイルスは一般的に空気に触れることによって効用が弱まるとされている)要は、非現実的なのである。

では、(自分が)HIVウイルスに感染していることを承知の上で、感染を防ぐ措置をせずに性交渉(等)をすることによって、性交渉(等)の相手をHIVに感染させることは傷害罪に当たるのだろうか。
この問いには二点の論点がある。即ち、性病に「感染」させた時点で「傷害」が成り立つのかどうか、そして「感染させないように努力する」ということを行わなかった場合、それが傷害罪として成立するのか、ということだ。この問いに対しては、判例という形で実は既に解釈が出ている。

(前略)傷害罪は他人の身体の生理的機能を毀損するものである以上、その手段が何であるかを問はないのであり、本件のごとく暴行によらずに病毒を他人に感染させる場合にも成立するのである。従つて、これと見解を異にする論旨は採用できない(中略)性病を感染させる懸念あることを認識して本件所為に及び他人に病毒を感染させた以上、当然傷害罪は成立するのであるから論旨は理由なき見解というべく、憲法違反の問題も成立する余地がない。(後略)

昭和二七年六月六日 最高裁判所 判決文

この判決文における病毒は、HIVではなかったが、類推されるに上記の状況において傷害罪が適用される可能性は高いだろう。
はっきり言って、こんなことが起きる可能性は皆無に等しいだろう、と思う。正直言って、HIV感染をしている人は、まず自分の病気に対しての意識を考え、まずそういったことを考えもしないだろう。然し、全ては「だろう」であり、それを描写してしまった『告白』が「事件のアイデアになった」とかにならなければいいのだが。

さて元来、HIVはタブー視されていたものだったが、この数年は社会的取り組みから、HIVに対する認知、更には予防や検診に対する認知も広がってきた。然しながら、やはりHIVに対するタブーは依然として日本人に強い。(極端な話、付き合っているパートナーとの初めての性交渉で、HIVの感染を聞くことがあるだろうか。また、話題に出すだろうか。)映画『告白』が、社会的にHIVに対する認知を上げたという良い側面もあるだろうが、悪い側面として、上記に書いたような犯罪や、更に悪意を持った行為が発生するということも、、、物理的な可能性として否定はできないだろう。

R-15を外すような話もあるらしい。バトル・ロワイアルの時もそうだった。ただ、中学生なり小学生があれを見たときに(脚本的内容に大きな変化がないとした場合)間違いなく給食の「牛乳」で大騒ぎする子供たちがどっかにいるだろうし、例えば「HIV」という悪口がいじめで使われるようになる、といったことも想定される。様々な悪い側面も想定されるが、それは先程のバトル・ロワイアルと同じように、「映画が加害者に与えた影響はあったが、それが即ち映画の存在を否定するものではない」だろう。

奇しくも、バトル・ロワイアルの3Dが公開されたらしい。
この10年間で、重犯罪の低年齢化が顕著になった。附属池田小の無差別殺人事件から10年でもある。告白を見た人たちの次の10年は、如何になるだろうか。そしてその時、映画『告白』がどのように評価されるのであろうか。望まれないのは、映画の芸術性についての評価をなおざりにして、あたかも犯罪の動機そのもの、ないしは犯罪助長の元凶のようないわれをされることだ。

言い訳の様になるだろうが、最後に2つ書いておく。HIVに感染をした人達は苦しんでいる。目に見えない病気で、死と隣り合わせな病気と苦しんでいる。そういった人達の事を思うと、こういった映画が与える影響を含め、HIV感染者の人達の心を心配せざるをえない。しかし、病気と戦っている人達こそが、本当にHIVの苦しさを知っているからこそ、可能性がゼロとは言えない映画の描写と同様のことは、間違いなく起きないだろうと私は信じている。そして、小説の内容を素晴らしい表現力で動画にしてしまった中島監督の演出力には、今でも頭が下がる。映画『告白』は、2010年最も素晴らしい映画だったということに、私は異論がない。